沖縄で戦争について考える

2014年8月27日 17時31分 | カテゴリー: 活動報告

 この夏、15年ぶりに沖縄に行ってきました。美しい海(美ら海)に囲まれた沖縄は、長く基地問題に揺れています。やはり、今の沖縄を知るためにも太平洋戦争の様子を知らなくてはと、那覇滞在の限られた時間の中、旧海軍司令部壕と、対馬丸記念館を訪れました。

 旧海軍司令部壕は、那覇空港そばにあり戦争末期1944年(昭和19年)海軍兵が自らの手に持った「つるはし」と「くわ」で450メートルの長さの横穴を縦横に堀り、アメリカ軍の艦砲射撃に対抗して持久戦を続けるための地下本部としたものです。1945年4月1日にアメリカ軍は沖縄本島中部読谷村、北谷村あたりに上陸し、地上戦が開始されました。日本軍は、どんどんと南に追い込まれ、この海軍司令部壕では、4000人もの海軍兵が収容され、立って寝ていたとの説明もありました。

海軍壕入り口

6月14日に太田司令官初め幹部が自決した部屋には、手榴弾が飛び散ったあとが残り、当時の様子が生々しく残されています。

3月末から6月末までの日米の「鉄の雨」といわれる地上戦は、沖縄の市民も巻き込んだものでした。大田實司令官が送った最後の電文には、その様子が書かれており、

http://kaigungou.ocvb.or.jp/pdf/denbun(yaku).pdf

その最後の言葉、

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

という言葉に胸が詰まる思いです。この地上戦では、約20万人が死亡し、内半数が沖縄市民の方たちです。

 戦争末期に沖縄から本土に疎開するために多くの小学生が乗り込んだ対馬丸がアメリカ軍に撃沈されてしまった悲劇を忘れないために作られた施設が対馬丸記念館です。1944年7月にサイパンが陥落したあと、沖縄で地上戦が予想される8月に老人、婦女、児童の本土または台湾への疎開が命じられました。8月20日両親から離れて長崎に向かって心細い思いで船に乗り込んだ 人の対馬丸は、22日早朝アメリカ軍の魚雷攻撃により砲撃され、撃沈してしまいました。1485名が死亡、生き残った児童は59人だそうです。

 中には、10日間もいかだで漂流し助かった人もおり、その様子が記録されています。対馬丸が撃沈されたことは当時箝口令がひかれ、手紙の返事がないと不審がる親もいたということです。また、つらい思いをして、沖縄本島のふるさとにもどったら、地上戦で両親も家も何もなかったという2重3重の苦しみを受けた方もいるとのことです。  私は、昭和9年生まれの実家の母が東京から一人離れて愛媛の田舎に縁故疎開で預けられた話を小さい時から何度も聞いており、対馬丸に乗った母と同じぐらいの年の人たちの幼き頃を想像しました。

 今、実際に戦争の悲惨さを体験した人から直接話しを聞くことがだんだん少なくなっています。かつて、子どもたちが小学校の時に、同居している義理の父に戦争の話をして欲しいと頼んだ時、父は、そして、辛かった事は話したくない、と言っていました。でも、どんなに貴重なのかを孫の世代に伝えて欲しいと頼んだところ、話をしてくれました。そして、戦争に行って死ぬ事が美徳と教え込まれてきた教育について強調していました。「君たちは、勉強して自由に生きることができる。大事ににして欲しい」という亡き父の言葉を思い出します。

対馬丸は1997年に、海の底に沈んでいるのが発見されました。沖縄の子どもたちの思いを伝えなくては強く思います。

 今回は、初めて八重山地方にも足をのばしました。滞在した石垣島は、東京から2000キロメートル、那覇からも400キロメートル、台湾まで200キロメートルに位置する島です。否が応でも隣国と仲良くせざるを得ない位置にあります。エメラルドグリーン、コバルトブルーなど美しい海は、いつまでながめていてもあきることがありません。しかし、戦争中、マラリアが流行している島や地域に強制的に移住させられ、マラリアにかかって犠牲になった人も多くいたとのことです。

 島から島へと旅をして、本州も島にすぎないことを実感しました。海に囲まれた島国日本。その地理的位置を今一度見つめ直し、遠くから他国の資源を持ってくるのでなく、自分のところでできることは自分のところでまかなうことを第一優先にして、他国との戦争に至らない術をあらゆる面で考えるべきと思います。